夢へのキャリア

世界一リッチな大道芸人!シルク・ドゥソレイユ創設者!

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よく都会など人通りの多い場所へ行くと、ギターを片手に路上で歌ったり、音楽とともに踊っては通行人に足を止めてもらおうと頑張っている人たちがいます。

彼らは知っているのでしょうか?

2004年に『フォーブス誌』で発表された世界長者番付で名前を連ねたある人物が、かつては路上パフォーマンスをしていた曲芸師だったということを。

その意外な人物は一体どのようにしてストリートパフォーマーから億万長者へと変貌して行ったのでしょうか。

今回はシルク・ドゥ・ソレイユの創設者ギー・ラリベルテのサクセスストーリーについて見ていきましょう。

世界一リッチな曲芸師ギー・ラリベルテ

世界中で一番有名なエンターテインメントを展開するシルク・ドゥ・ソレイユは現在5000人以上もの人が働き1400人ものパフォーマーが活躍する組織として有名です。

当初20人ほどで始められたその小さな団体が一体どうやってそれほどまでに大きく有名になりえたのでしょうか?

今回はシルク・ドゥ・ソレイユを創設したギー・ラリベルテのサクセスストーリーについて見ていきたいと思います。

 

1959年9月2日、カナダのケベックシティーにてアルミ会社の父と看護師との間にギー・ラリベルテは生を受けます。

幼い頃からエンターテインメントに興味を持ち、度々両親にサーカスに連れて行ってもらっていたのです。

そのため学校でもパフォーマンスのイベントを開いたり、旅行の計画を立てたりと好奇心は旺盛でした。16歳の時に計画したルイジアナへのクラス旅行の際には、出発の時に母にカリール・ジブランの『預言者』を引用したメモを残したそうです。

そこには「あなた方の子供達は、あなた方のものだけではない。彼らは人生に大義を背負ってこの世に生を受けてきたのだ。」と書かれてありました。

そんなラリベルテは18歳になると再び旅に出ます。

今度の目的地はヨーロッパでしたが、公園のベンチなどで寝たりしていました。そしてそこから1年間、大道芸人と出会うと彼らと路上で過ごして手品や火炎を飲み込む芸を披露しては通行人の足を止める術を身につけて行ったのです。

1979年、20歳になったラリベルテはカナダへ戻ると、ケベック北西にある小さな町で劇団プロデューサーとして働きます。ここでラリベルテは仕事仲間で竹馬乗りのギル・サン・クロワと出会っています。

そしてしばらくはハワイのサーカスで活動を続けました。

そしてラリベルテはここで出会ったダニエル・ゴーティエを含む3人でハイヒールクラブという小さな一座を立ち上げて、1982年には初のイベントを立ち上げて地域のサマーフェスティバルなどを巡回していたのです。

そして1984年、カナダ発見450周年を記念して、ケベック州政府が文化奨励として補助金を多く交付したのです。

ラリベルテ達もこの補助金を受け取ることに成功して、仲間とともにシルク・ドゥ・ソレイユ(太陽のサーカス)を結成したのです。

当時のサーカスは動物使いが動物を使いながらショーを見せるというのが一般的でしたが、ラリベルテ達は己の肉体のみを使ったパフォーマンスに磨きをかけていきます。

シルク・ドゥ・ソレイユは11週間で11の町を転々としました。

料金は大人2ドルに子供1ドルで、800席のラリベルテのショーはいつも満員で賑わっていました。ラリベルテの大道芸を取り入れ、大人向けの知的なアクロバティックショーはどこの地域でも新鮮だったのです。

そして一行はトロントで「サン・サーカス」と銘打ってパフォーマンスをすることにします。

ところが運悪く翻訳が間違ってしまったのか、本物のサーカスを見たいと思ってきた観客が、シルクの動物を使わないサーカスに期待を裏切られたと感じ返金を迫る自体が起こったのです。

さらに困ったことは、何千人もの観光客が訪れるナイアガラの滝の南で興行を行った時のことでした。人通りが多かったにもかかわらず、観光客は滝が目当てだったためにシルクのショーを観に来る人たちは1日に15人ほどにしかならなかったのです。

一座はその後もしばらく苦しむも、1987年にラリベルテらはあるチャンスをつかみます。

なんとロサンゼルスにいるケベックの代表団が教養人を相手にしたアートフェスティバル主催者を説得してくれて、シルクのショーをケベック市で見せることができるようになっていたのです。

この主催者は事前にショーを4度も鑑賞すると、シルクを初日のトップバッターにしてくれたのです。主催者にとってサーカスを初日に持ってくるのは危険でしたが、ラリベルテはもっと危険でした。

実は公演の条件は、前払金なしの代わりに観客席を著名人で埋める、もし切符が売れればその分の収入が支払われる、というものだったのです。

これによって一座はロサンゼルスに着くころには帰りのガソリン代もない状態でした。

そして著名人が集まる緊張の舞台が始まります。

結果的に、ロサンゼルスの最初のシーズンは黒字になりました。そしてシーズンが終わるころには4万ドルもの預金ができるほどの盛況だったのです。

さらにラリベルテはここで一つのアイデアが思い浮かびます。

それが、『1つの集団で1年間ずっと公演するのではなく、ショーの企画のために休演して、その間に公演する別の集団を立ち上げる』というものです。

収入を安定させるために、ここからラリベルテは経営者の脳へと変わったのです。

パフォーマーからは反対があったものの、やがて1988年には1億ドルのスポンサーの獲得、1991年には日本のフジテレビから600万ドルの契約で8つの都市を100回の公演を成功させました。

そして翌年にラスベガスに本拠地を設けて、いくつかの巡回興行と施設での公演を行うまでに発展して行ったのです。

ディズニーや多くの企業との契約を成功させて行ったシルク・ドゥ・ソレイユは100ドルもする入場料にもかかわらず、満員御礼で多くの人たちがそのショーを楽しんで行ったのでした。

そして2006年にフォーブス誌で発表された世界長者番付で、ラリベルテは資産14億ドルとして曲芸師として初めてその名前を連ねたのです。

興味の尽きないラリベルテはその後、人類7人目の宇宙旅行から無事生還し、ピエロの赤い鼻をつけて人々に明るい希望を与えました。

 

かつてラリベルテは、路上でパフォーマンスをして3人から始めた小さな大道芸人のチームの一員でした。

しかし、仲間とともに技を磨き合い、協力してチャンスを掴んできたことで世界中の人々を感動させる巨大なエンターテインメントを作り出したのです。

どんな分野でもどんな小さなことでも、仲間とともに磨き合えば世界の頂点にだって手がとどくのです。

「今いる仲間を大切に前へと進もう!」

人生は冒険だ。明快な道なんて存在しない。

-Guy Laliberté

 

 

 

【参考記事】

http://www.thecanadianencyclopedia.ca/en/article/guy-laliberte/

https://en.wikipedia.org/wiki/Guy_Lalibert%C3%A9

【参考書籍】

 

【写真引用元】

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