夢へのキャリア

抱いた女は1万人超!バスケの神マジック・ジョンソン

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私たちは動画という分野で活躍していますが、どの分野にしても大きく名を馳せた人物、もしくは先駆者的な人物がいるはずですね。

たとえば以前紹介したココ・シャネルはフランスのファッションの先駆者ですし、ベイ・ブルースは野球を世界中に熱狂させた先駆者でもあります。

今回ご紹介する人物もまたバスケットボールでのそれまでのプレーのやり方を変えてしまった先駆者です。

不可能を可能にしたマジック・ジョンソン

NBAで歴史上の偉大な50人の選手の中に選ばれ、殿堂入りを果たして、背番号は永久欠番になったバスケット選手がいます。

彼の名はアーヴィン・ジョンソン。

人々からはトリッキーで魔法のようなプレースタイルからマジック・ジョンソンと呼ばれ続けた男です。

今回は多くのバスケットプレイヤーが真似をしようと試みたという、マジック・ジョンソンのサクセスストーリーについてみていきましょう。

『無理』を無視した男マジック・ジョンソン

1959年8月14日、アメリカのミシガン州にてアーヴィン・ジョンソンは7人兄弟の4番目に生まれました。

両親は南部出身で自動車関係の仕事を求めて働いていました。

そんなジョンソンは少年時代に、休暇の父親といっしょに庭などでバスケットを一緒にしていたのでバスケが大好きになりました。

少年バスケットボールチームに所属したジョンソンは毎日毎日、バスケットボールを楽しんでいたのです。

中学校になると、誰よりも身長が高くなり運動神経も抜群で、人試合で48点もの点数を上げることもありました。そしてジョンソンはこのころからバスケットの強豪高校のセクストン高校へと進学してスターとして活躍することが夢でした。

ところがジョンソンが中学校にまだいた時、故郷のミシガン州では『強制バス通学制度』が始まって、人種の融合を図るためにジョンソンは白人だらけの遠距離の高校へと強制的に通うことになったのです。

そこの高校ではバスケットボールは無名で、黒人が少数なのでトラブルが多く、実際にジョンソンの兄もコーチとのトラブルでバスケット部を辞めてしまいました。

しかし、ジョンソンはここで諦めませんでした。

黒人が生き残るためにも交渉術を学んで多くの人たちを説得したり、バスケットが無名ならば他の人の何倍もの練習を続けました。

多くの人は無名校では勝利は無理だと言います。しかしジョンソンは自分が勝利することで周りの人に認めてもらおうと来る日も来る日も血の滲むような努力をしました。

その結果、ジョンソンは1年生で一人で36点もの得点を記録しました。これを見ていた新聞記者はジョンソンに『マジック』というニックネームをつけて報道します。

4年生にもなると、ジョンソンのチームは27勝1敗の成績を上げてミシガン州を制したのです。すると大学からは次々と勧誘が来るようになります。

大学に進学することになったジョンソンは、よく練習をするミシガン州立大学か、その他の有名大学に進むか悩んでいました。

 

しかし、ミシガン州立大学には、よく選手を怒鳴りつけるジャッド・ヒースコートコーチがいたのでジョンソンはあまりいい印象を持っていませんでした。

ただ、ヒースコートがジョンソンの家を訪れた時に彼は『他の大学にいけば君はセンターとして起用されるだろう。だが私は君をポイントガードとして起用するつもりだ。』と言いました。

ポイントガードは普通は身長が低くて器用な選手がつとめて、チームの『司令塔』的な役割をするものでした。

マジックジョンソンの身長は2m6cmという長身なので、センターやフォワードで活躍する方がいいと普通の学校は考えるのです。

しかし、ジョンソンはコーチの情熱に惹かれてミシンガン州立大学で、ポイントガードをやってみようと決めます。

しかし、またもや周りは『長身の君には無理』と猛反対をしたり、ジョンソンに無理の言葉を突きつけます。

しかし、ジョンソンはそんな言葉に耳を貸さずに練習に練習を重ねて、ついに当時は強いとは言えなかったミシガン州立大学のチームを率いて25勝5敗の成績を残したのです。

やがてジョンソンの”マジック”は噂を呼んで、2年生の時には大学バスケットボールでの最高視聴率を記録して、やがてジョンソンはミシガン州立大学を初のNCAAトーナメントで優勝を勝ち取ります。

優勝を遂げたジョンソンの勢いは衰えず、2年で大学を中退するとNBA入りすることを発表します。ジョンソンはドラフト1位の指名権をかけたコイントスで、レイカーズに入団することとなりました。

しかし当時、ジョンソンの長身でポイントガードは前例がなく、さらにアウトサイド・シュートが苦手だったこともあり、レイカーズ首脳陣はまたしてもジョンソンに反対をしました。

しかし、レイカーズの新オーナーの押し通しによってジョンソンが長身ポイントガードとして指名されます。当時NBA最高金額の年棒50万ドルで契約をしたジョンソンは、1年目からNBAオールスターゲームに選ばれ先発出場するなどその人気は抜群でした。

成績も好調で、新人王レースではラリー・バードに敗れたものの、20歳にしてファイナルMVPを受賞した唯一のルーキーとなったのです。

Los Angeles Lakers Magic Johnson and Boston Celtics Larry Bird in Game two of the 1985 NBA Finals at Boston Garden

Los Angeles Lakers Magic Johnson and Boston Celtics Larry Bird in Game two of the 1985 NBA Finals at Boston Garden

(1985年、NBAファイナルでラリーバードと対戦するマジックジョンソン)

 

特にオフェンスの際に、ジョンソンがマジックと呼ばれる要因の一つに『ノールックパス』というものがあり、見ている方向とは全く違う方向にパスができるので背中に目があるのではないかと一斉を風靡したのです。

しかし、レイカーズはリーグ2位で当時の1位のチームはセルティックスでした。

両チームは60年代から対戦を続けるもどうしてもセルティックスには勝てずにいたのです。ボストンに会場を移した後で行った試合では、勝ち試合にもかかわらずジョンソンが終盤にミスを重ねてやはり敗退してしまったのです。

このことで『勝てる試合なのにジョンソンのせいで落とした』とマスコミや他選手から非難や中傷をくらいました。ジョンソンにとってはとても辛い時期でもありました。

80年代のシーズンではオールNBAファーストチームに選出されるジョンソンでしたが、チームは不調ということもあり第1戦は33点もの大差でセルティックスに負けてしまいます。

しかし、2戦目ではレイカーズの監督が選手に初戦のビデオを何度も見せて、勝利します。3戦目ではレイカーズが勝ち、4戦目ではセルティックスが勝利。

そしてついに5戦6戦と立て続けにレイカーズが勝利を収めて、NBA史上初のレイカーズが優勝、そしてセルティックスも史上初ホームで優勝を奪われたのでした。

 

そんな大活躍をしていたジョンソンでしたが、試合が終わってその街のホテルに向かうと常に40人以上もの美女が待機しており、多くの女性と関わっていました。

その人数は12年間のプロ生活の中で1万人を超えて、最盛期には10人の女性と1夜を共にしたと言います。

そのせいで、1991年のシーズン開幕直前に健康診断にてジョンソンはHIVに感染したということが判明したのです。

医師の勧めでジョンソンは引退を決意して涙ながらに記者会見を去りました。

 

引退した後のジョンソンはNBAのシーズンには一切出場しませんでしたが、オールスター戦のファン投票の用紙にはジョンソンの名前が多数ありました。

オールスターで出場したジョンソンは、西軍の先発として出場して、東軍のマイケル・ジョーダンのチームと戦い、ジョーダンと1対1の対戦をします。

結果は、ジョンソンの西軍が勝利して見事にMVPを飾ってその伝説の『32』の背番号は永久的に彼だけのものとなったのです。

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永久欠番になった32の背番号

 

才能あふれるジョンソンは転機が訪れるたびに多くの周囲の人から猛反対や、君には無理と言われ続けてきました。

しかし、無理という言葉を信じずに自分の中の可能性を信じたジョンソンは、誰も真似できない長身ポイント・ガードとしてバスケットの歴史に大きく名前を轟かせたのです。

彼はどんなに無理だと言われようとも、信じるべきものは自分の可能性なんだと私たちに教えてくれたのです。

「たとえ無理と言われても、無理かどうかを決めるのはあなた自身なのだから」

 

多くの人が、僕にも君にも「無理だよ」と言った。

彼らは、君に成功してほしくないんだ。

 

不幸なひとは、不幸な人を友達にしたいんだ。

決して諦めては駄目だ。

-Magic Johnson

 

所感

 

企業活動や挑戦をする私たちも少なからず『無理』と思われたり言われたりする経験があります。

私の思う経営というのはまさにこの『無理』というのを『可能』に変えるものだと思います。

例えば、このJandreamを作る前から私は、億を超える人たちに夢や希望を届けて見せると決めていました。

普通なら『無理』と思って相手にしない人が大半ですし、一番親しい人ですら信じてくれない時も少なくはありません。

ただ、私たちはお金が楽に入ってくる方法に甘んじる企業ではなくて、誰よりも痛い思いをしながら前を突っ走って挑戦していく企業を目指していきます。

でなければ掲げた億を超える人たちに夢と希望を届けることはできませんからね。

その時に考えて欲しいのが、できるかどうかじゃなくて先に決めることです。決めてしまえば、コンピュータよりもすごいのが人の脳みそで、これが確実に方法を探し出してきます。

自分が無理と決めない限り、無理ということはほとんどないのだと思います。

そして周りから『無理』と思われるくらいでなければ、あなたは大した影響を持たないのではないでしょうか。

 

【参考記事】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3

http://www.nicheee.com/archives/2013815.html

http://ameblo.jp/jcf04567/entry-11261733493.html

http://laughy.jp/1436774417079166515

【写真引用元】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3

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