夢へのキャリア

成功するには友に夢を語れ!ハーレーダヴィッドソン

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ちょっと前に見た『団塊ボーイズ』っていう映画があったんですけども、いい歳したおっさんが昔を思い出してバイク仲間と色々とバイクで旅を始める物語ですね。

 

今回はそんなアメリカンバイカーの

文化を作るきっかけとなった人の物語です。

 

ハーレーとダヴィッドソンの創業秘話

 

1880年12月29日、ウィンスコンシン州のミルウォーキーにて鉄道のエンジニアをする父の下ウィリアム・S・ハーレーはこの世に生を受けました。

ハーレーには幼い頃からよく遊んでいた友達がいました。

彼の名はアーサー・ダヴィッドソンと言う名前でした。

ハーレーとダヴィッドソンはいつも一緒に近所で魚釣りやサイクリング、そしてダヴィッドソンの家にある地下で機械をいじったりして遊んでいました。

そんな二人は中学生を卒業するまで同じ学校で過ごしてきた親友だったのです。

しかし15歳になるとハーレーはダヴィッドソンと離れ、自転車やバイクなどを製造する会社で働き始めました。

ここで彼は様々な部署を回りながら数年間の間働いていくのです。

そしてハーレーは21歳になる頃にはダヴィッドソンとともにバースカンパニーという会社で設計や金属の製造の仕事に就いたのです。

そしてこの時からハーレーとダヴィッドソンは自分たちで、エンジン付きの自転車があったら面白いことになる、と言う考えを抱いて構想を始めたのです。

そして、21歳のハーレーと20歳のダヴィッドソンは小さな木造小屋で、今まで培ってきたノウハウをお互いに出し合って、ハーレーダヴィトソンとして構想を実現させようと動き始めたのです。

試行錯誤と実験を繰り返して2年もの歳月が経った1903年、ついに初めてのプロトタイプが完成したのです。

そしてこれがのちにエンジン付き自転車へと発展していきます。

この年にハーレーはもっと勉強が必要だと考えて、ウェイターとしてバイトをしながら大学に入学して機械工学について学ぶことにします。

そして二人はハーレーダヴィッドソンとして会社を設立すると、翌年に初めて彼らが手がけたエンジン付きの自転車が売れたのでした。そしてこれを機に二人はやる気を出してもっとバイクを向上させていきます。

さらには彼らの下に新たな仲間も現れることになります。

それがダヴィッドソンの兄のウォルターとウィリアムでした。

彼らもまた非常に優秀なエンジニアだったので、ハーレーダヴィッドソンのバイクはどんどん品質が向上して行ったのです。

そして1905年にはシカゴで行われたレースで二人の作ったハーレーダヴィッドソンのバイクが優勝をするまでになりました。

これを機にハーレーダヴィッドソンは初めてフルタイムとして従業員を雇うことにしたのです。そしてハーレーダヴィッドソンのバイクは品質がいいと評判になり、彼らはいよいよ工場をつくると従業員の数も6人に増えその年に50台のバイクが売れていきました。

 

そしてついに1909年に、この若者たちはVツインという新型エンジンを開発すると、当時のオートバイでは不可能だった時速100キロ台の最高速度を出して行ったのです。

この基本構造は現在でもハーレーダヴィッドソンの心臓部として搭載され、独特の低いバイク音を生み出しているのです。

そしてそんな中、第一次世界大戦が起きました。

これがハーレーダヴィッドソンにとってはチャンスで、戦時中に軍用の機械を投入する方針だったために、アメリカ陸軍から2万台もの発注を受けたのです。

これを機にハーレーダヴィッドソンは拡大していき、ついに世界最大のオートバイメーカーにまで上り詰めていきました。そしてこの信頼関係は切れることなく、第2次世界大戦では9万台もの発注を受け、世界中からそのブランド、そして品質の高さが有名となりブランドを確立することに成功したのです。

そしてそのブランドを確立し、一代で富と名声を作り上げたハーレーは1943年にこの世を去ってしまいます。

そして創業者がこの世を去ってから、ハーレーダヴィッドソンの悲劇が始まるのです。

それが、日本のホンダが高品質なバイクを低価格でアメリカ市場に投入してきたのです。これがあまりにも人気だったため、ハーレーダヴィッドソンはAMFに買収されると、資金力によって対抗しようとします。

 

しかし、この買収がもたらしたのは品質の低下でした。

2台に1台が不合格となりハーレーダヴィッドソンの評判は落ちて行ったのです。大型車の市場もホンダに抜かれてやがてAMFは手を引くことになります。

 

そしてハーレーダヴィッドソンは生き残るために奥の手に出ました。

それが、政府に働きかけて日本産のバイクの関税を4.4%から49.4%という10倍以上に引き上げさせたのです。

これに一息ついたハーレーダヴィッドソンは日本流のジャストインタイム生産方式を採用すると、ハーレーオーナーズグループというクラブを作って、ハーレーのライダーに仲間意識を持たせる戦略を立てました。

そして今現在、ハーレーはホンダに続く2番目に大きなオートバイメーカーとなり年間にして35万台ものオートバイを販売するまでになったのです。

そして再びそのブランドを確立して行ったハーレーは、2003年には10万人ものライダーが創業者出身のミルウォーキーに押し寄せてコンサートをするなどその熱は他のどの企業にも負けない盛り上がりを見せています。

 

かつて2人の親友同士が語り合った夢と構想は、やがて彼らだけでなく世界中の数百万人もの人々を熱狂させるものとなりました。

その自由と抵抗の象徴的なオートバイはこれからも反骨精神を持つ人々に多く受け入れられていくことでしょう。

 

もしかしたらあなたの思い描いている夢も、友人に語ることでそこから実現に向けて動き始めるかもしれませんね。

 

俺たちはまだやったことのないことに取り掛かる。

これはとてもワクワクするものさ。

-Harley Davidson

 

参考記事

http://www.harley-davidson.com/content/h-d/en_US/home/museum/explore/hd-timeline.html

http://quotesgram.com/img/famous-harley-quotes/0PsJYr1YU5/

https://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Davidson_(motorcycling)

http://www.virginharley.com/history/history01/

 

 

 

 

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