夢へのキャリア

ボインの人形が100億体!バービー人形の母ルース・ハンドラー

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Ruth_Handler

 

最近になってよく思うのが、子供の頃の感性って、3つ子の魂100までというように、大人になってもあまり変わらないものなんですよね。

なんで、自分のやりたいことって実はもう子供の頃からわかっているはずなんですよ。ただ、それに気づかないだけといいますか。

 

で、自分もそうだったんですけれども子供って人形とか持って、色々と遊ぶの好きですよね。たとえば人形に着せ替えたりするのが好きな人は、将来ファッションとかそう言ったものに興味があるとか。

今回はその着せ替え人形の世界で一番人気のあるバービーの製作者について見ていきましょう。

 

バービーの母ルース・ハンドラー

世界中の多くの女の子が手にする人形、バービー。

日本では爆発的な人気はないにしろ、世界では100億体以上もの売り上げを誇り、まさに世界一有名な人形の代名詞となりました。

今回はバービー人形を生み出したルース・モスコー・ハンドラーのサクセスストーリーについて見ていきたいと思います。

 

マテル社創業者ルース・ハンドラー

1916年、11月4日、コロラド州にポーランドのユダヤの家庭で10人兄弟の末っ子としてルース・マリアナ・モスコー(ハンドラー)は生まれました。

しかし、両親はルースを育てることはできずに6ヶ月のときに長姉のところへと預けることにします。長姉はドラッグストアを営んでいたため、ルースは小さい時からお店の手伝いをよくしてくれていました。

 

実の親をあまり知ることもなくすくすくと育ったルースは貧乏ながらもアートスクールに通って、そこで生涯をともにするエリオット・ハンドラーと出会います。

二人は出会った時から意気投合して、やがて付き合い始めます。

そしてルースが大学2年のときに訪れたロサンジェルスでパラマウント・スタジオで働き始めると、エリオットもルースと一緒に暮らし始めたのです。

そして2人は22歳で結婚をします。

ロサンジェルスで生活を始めた2人はアートの経験を活かして当時最先端の技術だったプラスチックを使って、趣味でインテリア雑貨を作ってみました。

 

するとその出来は良くて、ルースはこの雑貨を売ろうと思い立ち、さっそく企業に売り込みに行きました。小さな頃からお店を手伝っていたおかげか、商談は成功して22歳にしてハンドラー夫妻は商売を始めるのでした。

そんな中、1941年には二人の間に初めての娘となるバーバラが生まれました。

そして子育てをしながら2人は仲間の工業デザイナーでもあるハロルド・マットソン氏と手を組んでプラスチックを使った写真フレームの生産を始めます。エリオットはその片手間に写真フレームを作る時に出る余りの材料で、人形用の小さな家具を作ったところ、それが大ヒットしてしまったのです。

やがてガレージから作り上げたこのビジネスは大きくなり、200万ドル近くの売り上げを叩き出すようになります。

そして1945年、マットソンと手を組んで立ち上げられたマテル社を立ち上げて、プラスチック製品を販売していきました。

翌年にはマットソンが夫妻に株式を売却したので、夫妻はおもちゃのみに集中して販売する経営方針に決めました。

ちなみにこの頃販売していた人気商品はおもちゃのウクレレでした。

そんなある時、娘のバーバラがおもちゃの人形で遊んでいたのですが、ルースはあることに気がつきました。

それが、幼い幼児の人形よりも、紙でできた大人っぽい人形を好んで遊んでいたということです。このころから大人っぽい人形のアイデアを少しずつ膨らませていきます。

 

そして10年もの時が過ぎていく中で、マテル社は新たなテレビ番組の高額スポンサー権を獲得して、当時はクリスマス以外放送されなかったおもちゃのCMをバンバンテレビで流すようにしたのです。

当時は斬新だったこの広告方法に、番組とタッグを組んで発売されたおもちゃは大ヒットして高額なスポンサー料はあっという間に回収できるまでになりました。

 

この成功の最中、ルースはスイスに旅行に出かけてとある店でドイツ製のプラスチック人形を発見しました。その人形はリリといって、豊かな胸に大人らしい斬新な人形でした。

ルースはすぐにその人形をアメリカに持ち帰って、その人形をもっと清潔感のあるものにするために、ジッパー付きの服や、日本人形の製作者と協力してプロトタイプを作成すると、娘バーバラの愛称から『バービー』と名付けました。

しかし、夫のエリオットもビジネスパートナーのマトソンもそのアイデアには消極的でした。あまりにも手を込んだのでコストがかかりすぎて、しかも正直大人のような人形が売れるはずがないと思い込んでいたのです。

しかし、そんな意見を押し切って3年もの開発期間をかけてついにバービー人形は開発されたのです。そして1959年、ニューヨークで開かれた見本市にさっそくバービー人形を持って行き、そこでバイヤーを探します。

しかし、豊かな胸にハイヒールを履いた大人っぽい人形は誰の目からも子供に人気が出るとは思っていませんでした。

しかし、女の子自身の反応はそれとは別だったのです。

そのまま販売されたバービー人形は女の子からの絶大な支持を集めて、発売されたその年だけで351000体も売れたのです。

その売り上げを促進するために、広告の投入や、ファンが飽きないように宇宙飛行士や大統領といった世界観まで作り出して、多くの女の子に夢を与えたのです。

その後、100億体もの人形を売り上げ、アメリカの女の子が平均8体のバービー人形を持つまでになるとマテル社の売り上げは3億ドルにまで達していました。

すべてがうまくいくかに思えましたが、実は会社が大きくなるにつれ創業者のルースは新たな経営者が来るたびに次第に脇へと追いやられていったのです。

挙げ句の果てにはスイスで見つけた人形の開発者からの訴え、そして従業員のストライキ、さらには工場の火災が発生したため赤字経営となったのです。

しかしルースはそのことを知らされることなく、隠蔽したとして訴えられて、過去最大の罰金5万7000ドルと2500時間の奉仕活動を言い渡されてしまうのです。

ルース夫妻は罰金の支払いのため株価の半分を売り払うと、結局のところマテル社を追い出された形になったのです。しかもそのときには乳がんを患っていました。

しかし、根っからの商売人ルースは乳がんの女性のための人工乳房を開発して、100万ドルのビジネスにまで発展させて多くの人を救った後、85歳という年齢でその生涯を終えたのでした。

 

女性への差別があり、しかも貧しい移民という環境だったルース・ハンドラー。

周りがなんと言おうとも自分の感性を信じ抜いた結果、彼女の手がける人形は世界で一番人気になる程になりました。

バービー人形を通してルース・ハンドラーは女の子には何だってなることができるということを伝えたかったのかもしれません。

 

「あなたが自分の才能と感性を信じたとき、人生に奇跡が訪れるでしょう」

 

私たちはビジネスのやり方は知りませんでしたが、

夢と才能はありました。

-Ruth Handler

 

 

【参考記事】

http://money-academy.jp/barbie-doll/

http://www.brainyquote.com/quotes/authors/r/ruth_handler.html

https://en.wikipedia.org/wiki/Ruth_Handler

【参考図書】

 

100Inc. -世界的企業100社のターニンク゛ホ゜イント

 

【写真引用元】

https://en.wikipedia.org/wiki/Ruth_Handler

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