かつて労働といえば12時間とか14時間とか働くのが当たり前で、それも休みがほぼなくて給料も高くありませんでした。
そんな中、誰かが『週に2日くらいは休みを取って、1日働くのも8時間くらいにすればいい』と考えたことで今現在私たちが常識だと思ってるような労働時間になったのでしょう。
それを最初にやろうといった人は、周りから馬鹿にされたりしたかもしれません。同じく現在1日8時間働いている仕事も、徐々にではありますが労働時間が短くなり、将来は1日に4時間程度しか働かなくてもいい未来がやってくるかもしれませんね。
では、そんな将来の前に今回は素早く1日8時間労働で給料も当時の2倍にまではね上げた人物をご紹介しましょう。
自動車の育ての親ヘンリー・フォード
19世紀当時、馬車が砂埃を立てて街の中を走っていた光景を4輪駆動の自動車が走る景色に変えてしまったたヘンリー・フォード。
まだ自動車が出回ってない時代に斬新な手法を取り入れることで一般大衆の人が手軽に自動車を運転できるようにしてしまいました。
今回はT型フォードでも有名な自動車の育ての親、ヘンリー・フォードのサクセスストーリーをみていきたいと思います。
馬車を消した男ヘンリー・フォード
1863年7月30日、アメリカのミシガン州にあるとある農場の夫婦との間にヘンリー・フォードは生まれました。
父ウィリアムは農場を経営していて暮らしぶりはそこそこ裕福で、母との愛情を受けてすくすくと育ちます。
10代に入ると父親から懐中時計をもらいますが機械に興味があったフォードは15歳の頃には友達や近隣の人の時計を分解して組み立て直したりしていました。
1976年、フォードの母親が亡くなってしまいます。
父親はフォードに農場の後を継いで欲しいと思っていましたが、フォードは農場の仕事を嫌っていました。フォードが愛していたのは農場ではなくて農場に入る母親だったのです。
そして16歳になったフォードは高校を中退して、デトロイトの工場で機械工として就職しました。
ところが19歳になると再び故郷に戻って、農場の仕事をすることにします。しかし機械好きだったフォードはそこにあった蒸気機関の操作に熟達して、その経験からウェスティングハウスという総合電気会社で蒸気機関の修理工として雇われました。
やがて月日は流れ25歳になったフォードは結婚し、農場と製材所経営で生計を立てます。
25歳のヘンリーフォード
1891年になると、エジソン照明会社の技術者となって、機械に強いフォードはその2年後には技術者のチーフ・エンジニアとして働きます。
これによってフォードはもともと続けてた自分の内燃機関の実験に時間と金銭を費やすことができるようになったのです。
そして度重なる実験を続け、3年経ったある時、ついに自作のガソリンで動く4輪自動車の製作に成功したのです。そして試運転を積み重ねてどんどん改良を重ねていきます。
初めて作った四輪駆動車
同じ年にパーティ会場で尊敬する創業者のトーマス・エジソンに初めて会います。フォードはエジソンに自動車に対する熱い思いを話して、エジソンもまたフォードのを励まし生涯の友となりました。
フォード(左)とエジソン(中)
フォード2台目となる自動車を完成させると、1899年8月5日、デトロイトの製材王の援助によってエジソンの会社を去りデトロイト自動車会社を設立します。
しかし、完成した自動車はフォードが期待するものよりも性能が低く値段も高かったので、成功せずに2年後に解散してしまいます。
諦めないフォードは26馬力のエンジンを搭載した新型の自動車を生み出すと、すぐにレースに出ていい成績を残します。これを見たウィリアム・マーフィーや以前の株主が再び援助をしてくれ同年に再びヘンリー・フォードカンパニーを設立します。
フォード自身もチーフ・エンジニアとして働きますが、この時出資者のマーフィーがコンサルタントを雇って会社の経営をもっと磨こうとしました。フォードはこのことに反発して、自身の名前がついた会社を去りました。
しかしまだ諦めないフォードは、元レーサーとタッグを組んで80馬力以上のレースカーを生み出すと、1902年のレースに出場させて見事優勝を飾ったのです。
これを見た石炭販売を手がけるマルコムソンという知り合いが、フォードに資金援助をすると申し出てくれたのです。
フォードはパートナーシップを組んでFord&Malcomson,Ltdという会社を設立します。
ところがいざ製作した自動車の売れ行きは上がりません。
そしてフォードが注文した部品の支払いも滞ってしまい、マルコムも新たな出資者を探す羽目になるのです。
そして再び1903年にフォード・モーター・カンパニーを再結成して、新しい車で世界最高記録の時速147.05キロという記録を打ち出しました。前年にフォードの車で優勝をしてくれたバーニー・オールドフィードはこの時の車でアメリカ中を運転して周り、フォードの会社の宣伝をしてくれたのです。
そしてフォードの会社も研究に研究を重ねて一般の人でも運転できるような、T型フォードを5年後の1908年10月1日に発表します。
T型フォード
当時、富裕層の持つ車が3000ドルから4000ドル、安いもので1000ドル以上はしましたが、T型フォードは825ドルという値段で売り出されたのです。フォードは大々的に広告を出して、フランチャイズ方式で販売店を増やすと毎年、100%以上の売り上げの伸びを記録していきました。
1914年に販売台数が25万台を越すと、当時の平均日当が2.3ドル程度だったのに対して、5ドルの日当と1日8時間週6日の労働時間にしました。
これによっていい技術者が集まり、研修費用がかからなくなったのと、いい給料をもらった社員がフォードの車を買うようになったので良い経済の流れが出来上がったのです。
そして販売台数はその後も増え続け、1918年には、街を走っていた馬車は次第に消えていき、アメリカの車の半分がT型フォードへと変わったのです。
その後19年間販売されたT型フォードは効率化された組み立てラインによって、1500万台以上という驚くべき台数が販売されてフォードは巨万の富と自動車王という名声を得たのです。
効率化された組み立てライン
フォードもはじめは農場から出てきて機械に情熱を燃やし、会社を起こしては何度も倒産させてしまっていました。
しかし、挑戦を続け周りに集まった優れた人たちに素晴らしい対価を与えることで彼は世界に自動車を広め巨万の富を得るまでになったのです。
目的を見失わなければ途中で現れる障害も乗り越えられるのだと彼は教えてくれたのかもしれません。
「努力しても失敗をしてしまうと思った時は、それは成功の階段を登ってるのだと考え直してみてください。」
努力が効果をあらわすまでには時間がかかる。
多くの人はそれまでに飽き、迷い、挫折する。
-Henry Ford
所感
フォードは学歴も何もありませんが、機械が好きだということでそれを極めて行ったことが成功の要因でした。
今現代、学校や社会や親の価値観によってすべての人たちが同じような能力を磨いているのが現状です。
フォードの時代は、工場は手作業だったため、組み立てるにしても同じ能力がなければ同じ製品はできませんでした。
しかし、今現在は同じ製品を作るにはコンピュータで計算し、機械が作ってくれます。
つまり社会は同じ能力の持ち主よりも、一つの分野を極めている人を求めているのです。
そのことに対してフォードもこう言っています。
『若者は自分を人と違ったものにする個性の種を一つでも探し出して、全力を尽くして育て上げることだ。社会と学校はこの種を奪い、誰も彼もひとまとめに同じ型に押し込めようとするだろう。だが、この種を失ってはいけない。それは自分を主張するためのただ一つの権利なのだから。』
これからの時代、時間が増えるとともに誰にでもできることではなく、自分に何ができるのかを明確にわかっていない人は、フォードの時代に馬車が滅びたように消えていくのかもしれません。
【参考記事】
【写真引用元】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89