夢へのキャリア

兄はプーマ!アディダス創業者アドルフ・ダスラー

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Adolf_Dassler

 

2016年といえばもうすぐリオデジャネイロオリンピックが始まりますが、応援しようと思っている競技などはありますでしょうか?

スポーツ選手が活躍する姿を見てかっこいいと思うのは、彼らがそれまでの人生を懸けて積み重ねてきた本気の集大成をそこで見ることができるからでしょう。

そんなスポーツ選手たちが活躍する一方で、裏で企業たちはどの選手のスポンサーになるかを考えています。

何年も同じ選手をずっと支えていく企業もあれば、新人選手が勝ち上がることに懸けてみて企業の名前を上げてくれることを狙うところもあるかもしれません。

 

こんんかいご紹介する人物もまた、オリンピック選手をサポートしたことで大きく企業の名前が知られ世界的なブランドを作り上げた方です。

それでは見ていきましょう。

アディダス創業者アドルフ・ダスラー

ドイツに本社を置き、その売り上げは年間2兆円にまで上る世界的スポーツメーカーでもあるアディダス。

この大企業ができるまでには多くの偶然とそこに関わる人たちの普通ではないドラマがありました。

今回はアディダスを作り上げたアドルフ・ダスラーのサクセスストーリーについて見ていきたいと思います。

 

1900年11月3日、アドルフ・ダスラーはドイツの小さな町ヘルツォーゲンアウラッハで生まれました。

父は靴職人で母親は洗濯の仕事をしており、2人の兄弟がいました。

ところが、両親はそこまで裕福ではなかったためアドルフを学校に行かせるだけのお金がなくはじめはパン屋、そして靴職人としての訓練を受けました。

そして第一次世界大戦が始まったために、アドルフは戦争へと駆り出されることになりました。

そして20歳で戦争から無事に帰ってきたアドルフは、タイヤやヘルメット、リュックサックを材料にして母親の洗濯室を使って手作りの靴製作を始めたのです。

父親が靴職人だったことに加え、兄のルドルフがスパイク関連の仕事をしていたので、1924年7月1日に兄ルドルフの力を借りてダスラー製靴工場を設立します。

ダスラー兄弟は工場でアスリートに向けて特化した靴を作るため、軽くて柔軟性がある靴を作りました。

そして2年後にはテニス選手向けの靴を作り、それから他の競技の靴も考えていきます。

ダスラーは靴作りに情熱を燃やし、鮫皮やカンガルー皮など、ランニングシューズを開発するために様々な素材と実験を繰り返してその後いくつもの特許を取得するに至りました。

彼らの生み出した靴は1928年にオランダで開かれたアムステルダムオリンピックでも技術的工夫がされていたのでスポーツ選手の間ではかなり評判が良かったのです。

 

そんな中訪れたのが1936年に母国ドイツで開催予定のベルリンオリンピックです。

そこでアメリカの一流スプリンターでもあるジェシー・オーウェンスが出場すると耳にしたダスラーは、早速オーウェンスに連絡を取るとオリンピック用の特別なシューズの提案をします。

当時、まだ有名人と契約する企業などなく、契約金が登場するずっと昔の時代でした。

オーエンスは快くこの提案を引き受けて、なんとオリンピックで4つもの金メダルを獲得したのです。

 

この結果を見て腰を抜かすほど驚いた人物がいました。

 

それが当時ドイツの国家社会主義者として台頭したナチ党のアドルフ・ヒトラーでした。

ヒトラーはこの時、兄弟に対して後にアディダスが世界に君臨するアイデアを授けました。

『君たちのスポーツシューズを競技選手に履かせろ、そうすれば他の人たちもそれを買おうと思うはずだ。』

そして兄弟揃ってナチ党に入ったのですが、その3年後そのヒトラーが原因で第二次世界大戦が開催されたのです。

そして兄弟の工場は兵士のブーツを作ることを強いられて、兄のアドルフは戦争でアメリカの捕虜にされて連れて行かれたのです。

しかしそれが兄弟や兄弟の妻たちとの不仲を助長させてしまいました。

捕虜から解放された兄ルドルフは1948年にアドルフの会社を去ると、川の反対側の街に同じスポーツメーカーを創設します。

弟アドルフはのニックネーム『アディ・ダスラー』から社名をアディダスにして、兄ルドルフは『Ruda』という名前の会社にして、後にプーマと変えています。

二人の兄弟喧嘩は街を巻き込んで行われ、街の人々はお互いの履いている靴を確認してから会話を始めるほどだったようです。

兄弟揃って競争を続け、お互いに選手に自分の靴を履かせようと努力を重ねました。

弟のアドルフは前へ進み、FIFAワールドカップではスパイクのついた靴を開発したおかげで、ドイツは初めてワールドカップで優勝を成し遂げます。

そして1972年に開催されたオリンピックではほとんどの選手がアディダスの靴を履くという事態にまでなっていたのです。

ところが、1978年アドルフは77歳という年齢でこの世を去ってしまい、跡を継いだ息子のホルストも9年後に51歳という若さで亡くなったのです。

その後、残された姉妹で経営を巡る争いが起き、かつてはアメリカで70%以上もあったシェアは3%にまで落ち込んでいきます。

シェアを奪ったのはナイキでした。

そして内輪もめをしている間に、会社は毎年1億ドルもの赤字を出しており、とうとう3億2000万円というバーゲン価格でアディダスはフランス人実業家のローベール・ルイ・ドレフュスの手に渡ったのでした。

アディダスは技術に焦点を当ててハイテクを目指します。

一方の競争相手のナイキはワールドカップでブラジルに多額の費用をつぎ込んで広告を行いました。しかし、優勝したのはフランスチームでプレイヤーはアディダスのシューズを履いていたのです。

その後もマンチェスターと契約したナイキに対して、デイヴィット・ベッカムを支援したアディダスは益々その繁栄を広げていったのです。

 

最終的にはフランス人によって建て直されたアディダスでしたが、スポーツ界をリードする姿は当初アドルフが母の洗濯室や兄と工場で技術を高めていたものが受け継がれています。

そして兄弟喧嘩から始まった二つの世界的企業は、今もなお多くの肉体を高める人々の動きをサポートし続けるものとなっていったのです。

ライバルや敵がいてこそ人を成長させる原動力となるのかもしれません。

兄がいなければ、私は決して成功することはなかっただろう。

-Adolf Dassler

 

 

 

【参考記事】

https://prezi.com/yzpjhftv0hzd/adolf-dassler/

http://www.evancarmichael.com/library/adolf-dassler/Adolf-Dassler-Quotes.html

https://en.wikipedia.org/wiki/Adolf_Dassler

 

【参考書籍】

 

【写真引用元】

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